TSTの無心テキスト

リハビリブログ改め

『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』と『ナナメの夕暮れ』

 おばんです。月2本以上ブログを書くというユルユルノルマさえ面倒に感じてしまう今日この頃の俺だァーーー。ただ前回一気に2本書き上げたので、ノルマは消化済み(と思っていたら7月突入。月2は超えずの巻)だらだら書いていきます。はい。

 

コロナでの自粛中に色々とコンテンツを消化しておりました。ゲームやらアニメやら本やら…その中でも、『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』と『ナナメの夕暮れ』が個人的にはグッと惹き込まれました。

 

そしてこの2つの作品にある共通する部分があると感じました。感じてしまった。感じてしまったんだからしょうがないじゃないか全く。

 

まず『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』は2018年にテレビ放送&Netflix配信されたアニメーション作品で、原作は暁佳奈の小説。

 

ざっとしたあらすじは、

4年間にわたる大陸戦争が終結。その戦場で「武器」と称されて戦うことしか知らなかった少女・ヴァイオレット・エヴァーガーデンは、戦場で両腕を失い、自在に動く義手を付けることを余儀なくされる。

 

退院したヴァイオレットは、ホッジンズの下で、自動手記人形としてC.H郵便社で働きはじめる。ヴァイオレットには、かつて戦場で誰よりも大切な人・ギルベルト少佐がいた。最後に聞かされた「愛してる」という言葉が理解できなかった彼女は、仕事と日常を通じて人と触れ合いながら、その言葉の意味を探していく。

 という内容である。

 

友人に薦められ、自粛期間中に一気見したが、その世界に引き込まれてしまいました。京アニということもあって作画は安定のクオリティ。そして終戦後の雰囲気が個人的には好きな世界観でした。

 

この作品の主人公であり、タイトルでもあるヴァイオレット・エヴァーガーデンは、戦争の為に訓練された感情の起伏がない少女である。そのため身も蓋もないことや思っていても言ってはいけないことを、言ってしまう。そのため周りから距離を置かれてしまうこともあったりします。

 

その後自動手記人形として様々人との出会いや別れを経験していくことによって「人形」から「一人の人間」として成長していきます。この成長が物語の大きな軸となっています。

 

 

一方『ナナメの夕暮れ』はお笑い芸人として活躍中のオードリー若林のエッセイである。前作※1『社会人大学人見知り学部卒業見込』発表から約5年経った若林氏が、親や先輩芸人の死や大人芸人としての人生を経験したことによって、「生き辛さ」から解放されるところまでが書かれている。

 

若様ことオードリー若林と言えば「人見知り」「ひねくれもの」「斜に構えている」という印象を持たれがちであるが、ここ10年でそういった「ナナメ」で物事や自分を決めつけたりすることから脱却しつつある芸人でもある。

 

そんな『ナナメの夕暮れ』なかでも個人的にお気に入りなのがp.131の「逃げる正論」というエッセイである。ここからは多少ネタバレするので、未読の方は注意してください。

 

 

要約すると、今の世の中では「正論」と「断言」が流行っており、特にワイドショーなどでは「正論大喜利化」している。自分(若林)は正論を言うのが苦手で、不倫問題などの犯罪ではないモラルの問題について言及することに抵抗がある。

 

トーク番組では、マイノリティの意見が暴論や極論であっても理解される空気があるが、ワイドショーなどでは許されにくい。

 

深夜ラジオという場所ですら、正論ばかり求められる空気すらある。正論は正しいが、面白くはない。

 

という内容である。(要約にしてはそこそこの分量と内容なので、注意されたら消しますw)

 

前回にも共通することですが、今の時代は「正しすぎる」と感じます。暴論や極論がバラエティでまで許されなくなっているという雰囲気があり、若林氏をそこをピンポイントに指摘しています。本当に共感できるし、このSNS時代には特に気をつけなきゃいけないポイントだと思います。

 

 

ヴァイオレット・エヴァーガーデン』と『ナナメの夕暮れ』はコンテンツとしても媒体も表現方法も世界観も何もかも違いますが共通するのは「正しすぎることの弊害」だと思います。

 

前述の通りヴァイオレットは、「人間」として扱われたという経験が極端少ないため、相手の気持ちや思いやりを考えることが苦手である。そのために職場や依頼先でのトラブルに発展することも数多くある。ヴァイオレットは「正論」だけが全てではないということを人々との触れ合いの中で知る。

 

そして『ナナメの夕暮れ』「逃げる正論」も、ただただ正論を正論のまま消費している世の中に一石を投じることで「正論」だけの社会を否定してる。暴論や極論を言うことの楽しさや心の余裕を奪ってる。

 

と、ここまで書いてみて、多少強引な結びつけ感は否めないが、自分の中で「正しすぎる」ことについて考える上で、影響があった作品なので類比させることにそれなりに意味はあったと思います。

 

前者は周りの人間関係における自分自身の「正しさ」、後者は世の中における「正しさ」。どちらにも弊害は存在し、そこをどう乗り越えていくか、振る舞いを臨機応変に変えていくかが大きなポイントではないかと感じました。注意しなきゃいけないのは論理立てて説明することや、相手を指摘することはそれ自体は悪いことではないですかね。

 

では。

 

※1:厳密にいえば前作は『表参道のセレブ犬とカバーニャ要塞の野良犬』であるが、こちらは紀行エッセイなので、別扱い。こちらも面白いのでぜひ。

 

www.amazon.co.jp

 

www.amazon.co.jp